suis quis

映画 / 音楽 / 本 / /

メタファーとしての恐竜 『アーロと少年』(2015)

もし6500万年前の地球に隕石がぶつからず、恐竜たちが絶滅しなかったら?『アーロと少年』(2015) は、そんな世界を描いた作品だ。恐竜たちは地球生活に適応して高度な文明を築き上げ、「言葉」も持っている。本作の主人公であるアーロは草食恐竜のアパトサウルスだが、一家は畑を耕し、農作物を育てて生計を立てている。絶対的存在であり、憧れの対象である父は、こどもたちに厳しい自然環境を生き抜くために自衛することを教えるが、末っ子で身体の小さいアーロは戦力にならずいつもきょうだいにからかわれていた。北アメリカの雄大な自然をバックに描かれる恐竜家族のシークエンスは、さながらアメリカ開拓時代の西部劇のようだ。しかしある日、大洪水がきっかけでアーロの父は亡くなってしまう。悲しみに暮れるアーロは、アパトサウルスの領域に踏み込んできた「人間」の少年を追いかけ、自らも家族とはぐれる。「父性」を失ったアーロは、同じく孤独な少年との冒険を通じて成長していくのだ。絶滅しなかった恐竜と対照的に、「未開のもの」として描かれる少年は言葉も文字も持たず、四つん這いやかみつく行動などで野性的な印象を与える。動物界の「ヒエラルキー」が逆転した世界で、恐竜のアーロが少年を手なずけ、「相棒」として扱う表現は非常に風刺的である。アーロが少年に「スポット」という名を与え、アーロが「おいで!」と彼に声を掛けた瞬間から、二者間には友情が芽生えていく展開になるのだが、この関係は人間と犬や猫などの愛玩動物における「ペット」関係と変わらないのではないだろうか。

 恐竜を「相棒」または「ペット」として見る際に注目すべきなのが、恐竜を「乗り物」として描く表現だろう。『アーロと少年』では、3DCGで表現されるアーロは柔和な表情をしたつるつるで「乗りやすい」恐竜として描かれる。アーロはスポットを「ペット」として手なずけながら同時に彼を自らの背に乗せて移動する。もちろんアーロが草食恐竜ということもあるが、ジュラシック・パークシリーズ、『センター・オブ・ジ・アース』など、実写映画に登場する無骨な恐竜像とは似ても似つかない、アニメーションだからこそ可能な「理想恐竜」表現が「乗り物」として人間と共生を図る恐竜の姿を示している。また恐竜を移動手段として考えるならば、恐竜の姉妹種である翼竜の存在は外せない。翼竜を「相棒」として、「乗り物」として描いた実例は残念ながら見つけられなかったが、ファンタジー生物ドラゴンは、翼竜を虚構化した存在とも言えるだろう。ドラゴンはヨーロッパ文化の伝承や神話で共有されている生物であるため、アメリカ文化にはあまり馴染みがない。しかし、イギリスの児童文学をドリームワークスが映画化したハリウッド映画『ヒックとドラゴン』(2010) は、ヴァイキングの息子に産まれた軟弱な少年が、凶暴で好戦的とみなされていたドラゴンとの絆を育むことでついには「乗り物」として乗りこなし、隠れていた真なる敵を倒す、というストーリーにより全米でヒットした。この映画が面白いのは、人間(ヴァイキング) とドラゴンに定められた対立関係が、ドラゴンを「手なずける」ことで二者の共存、共生が達成され、物語がハッピーエンドを迎えることだ。原題の“How to train your dragon”もあからさまだが、最後には主人公自身の言葉ではっきりドラゴンの「ペット」宣言がなされる。

 『アーロと少年』は人間と恐竜の力関係が逆転、『ヒックとドラゴン』は翼竜亜種としてのドラゴンが登場するイレギュラーな例であるが、ジュラシック・シリーズの21世紀版リブートといえる『ジュラシック・ワールド』(2015) では、クリス・プラット演じるパークの管理人がヴェロキラプトルを「手なずける」シーンが印象的である。前シリーズでは制御不能で不気味な恐怖を人間に植え付けたヴェロキラプトルは、その横暴さでティラノサウルスを凌駕する「新しい敵」=インドミナス・レックス駆逐のために、人間の乗るバイクに併走するよき「相棒」となるのだ。さらに面白いのが、引用した3作品すべてで、人間が相手を「相棒」化する際、自分の映し鏡として恐竜やドラゴンを受け止めていることである。従来の恐竜像が体現してきた得体の知れない強さは、あくまでもその「虎の威を借る」ことで失われた規範復古や資本主義経済のポジティブ・キャンペーンに使われてきた。よってそのイメージの多くは、さながら追いつけども「同化」できない父の背中を追い求めるようなノスタルジーに満ちていた。しかし、そんな恐竜をも「擬人化」の枠組みに捉え直すことで、21世紀の恐竜像は完成されつつあるのではないか。またこうした恐竜の新イメージがメディアなどを通じて再生産される現象は、異種間友情を謳った人間中心主義の復権も促している。