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カメラを持った怪物 『リヴァイアサン』(2012)

ルーシァン・キャステーヌ・テイラー、ヴェレナ・パラヴェルによる『リヴァイアサン』(2012)は、巨大なトロール漁船とその下の海を舞台に、超小型カメラGoProを使って撮影された。いわゆる「セリフ」は全くなく、水揚げされる魚が床に打ち付けられる音、地響きのようなエンジン音、カメラにぶつかった異物と衝撃によるノイズ、ヒトたちのささやき、怒号に至るまでのさまざまな前景化されたサウンドが観客を前人未踏の「映画体験」に誘う。とにかく印象的なのは、もはや「手持ち」に収まらず、どこにでも取り付けられる撮影機材が可能にした映像の切り取り方だ。焦点も天地も定めず縦横無尽に動き回るカメラは、いったい誰の/何の視点なのか?結論から言えば、それは「全て」の視点だ。ときには生気を失った魚のぬめった目をゼロ距離で捉え、ときには水中に沈み、鳥とともに船縁を乗り越えようとし、ときには黙々と魚を解体するヒトの肌や筋肉の動きをまじまじと見つめる。カメラが憑依するアクターは次々に変わっていくため、私たちはリラックスして身を委ねることができない。また、視点の不安定性は、その変化を操る「何物」かの存在をも想起させる。映画のタイトルである「リヴァイアサン」は、旧約聖書に登場する海の怪物の名前として有名である。聖書の中のリヴァイアサンは部分的に具体的な描写はあるものの、その全体像は得体の知れない存在として、海蛇、鰐、鯨といった巨大生物に転写されてきた。普段は海底に身を潜めているが、ひとたび怒らせるとその姿を現す、という神秘的な描写もヒトたちの恐怖を募らせる。よって、ヒトの手には負えない、またカメラにも映らない異形の何かがカメラを覗きこんでいると考えることもできる。

 本作では、トロール漁によって無作為に捕獲された海洋生物のうち、ヒトが「使える」ものだけ搾取されていく状況が延々と映されていく。現代においては、ヒト以外の動物はヒトに消費されるが、ほとんどの動物はヒトを消費しないしできない。ヒトは食肉文化を文化的伝統に組み込んだことで、動物の「贈与」なしには生きていけなくなっているのだ。また、古来よりヒトがヒトを超越した何か(神)を「再演」するための宗教的儀式や、豊穣豊作による祝祭行為において生け贄となり、消費されたのは、多くが「犠牲者」たる動物であった。マルセル・モースは『贈与論』において、贈与交換があらゆる社会活動の基盤を形成し、ヒト同士のネットワークを強化するための装置となると述べたが、『リヴァイアサン』の渾然一体となったヒトやモノを捉えるカメラを経験すると、もはや人間中心でも、物質中心でもなく、多様なアクターの作用があふれている世界の中で、身の回りのモノやノイズに目を向ける必要性が立ち現れる。

 また、カメラの視点を考える上では、「観客」はその映像をどのように受容するのか?という疑問も生じる。作品中のカメラの視点が定まらなくても、観客は自身を観客として自覚している。ゆえに、ここのシーンの撮影は何の視点であるか、ということを「客観的」に推定し、分析することが可能である。逆に言えば、観客としてのアイデンティティが確立しないとき、目の前にそびえたつスクリーン、その中で起こっている事柄に線引きできない状況が出現する。冒頭で使用した「映画体験」ということばは、近年特に映画批評や表象文化論、メディア論にて頻出している。映画の持つ従来の観る/観られるという二項対立を超越するような「体験」という単語を取り入れることで、『リヴァイアサン』のように作品内の視点の不安定性を示すだけでなく、受容者たる観客に揺さぶりを掛けるような作品が増えていることがわかる。そして、観客の多くが映画を観る場所である「映画館」についても同じことが言える。映画製作の潮流が、あらゆる意味で見世物的な短編映画、サイレント作品から、観客が主人公に感情移入しながら物語を楽しむ長編映画、トーキー作品へと移行していくにつれて、上映場所である映画館は暗く静粛になり、観客は視覚的な「動性」とひきかえに身体的な「不動性」を求められるようになっていった。しかし近年では、4DXやIMAX、VR装置など、観客の身体的「動性」を呼び戻し、作品と映画館の境界を揺籃させる技術が発達してきている。映画に「没入」し、映画を「体験」することが可能になった今、私たちはもはやカメラや映写機が映し出す「虚像」を身の回りの物質やヒトと同等に扱うことが可能になっているのではないだろうか。

 『リヴァイアサン』を著したトマス・ホッブズは、国家は神の創造物ではなく、ヒト同士の相互関係が織りなすものであるとして、「万人の万人による闘争」という言葉を残した。モースと同じように、彼らの生きた時代よりもいっそうヒトとモノ、そのほかの主体との境界が薄れている現代においては、この言葉をも再考していく必要があるだろう。