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コングはなぜ、何のために戦ったのか?『キング・コング』(1933)

メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサックによる1933年版『キング・コング』のラストシーンでは、エンパイアステートビルから墜落したコングに群がる人びとを尻目に、コングを髑髏島から連れ出した張本人である映画監督カール・ダナムが「It was Beauty killed the Beast.」と呟く。このセリフは2005年のピーター・ジャクソンによるリメイクでもそのまま用いられているが、果たしてこのセリフに込められた真意とは何なのだろうか。直訳すると「美しさが野獣を殺した」となるが、この「美しさ」がキング・コング映画で必ず登場する女性を示すことは明白である。ラストに発されるダナムのこのセリフによって、コングは「Beauty」である白人女性の獲得に躍起になったため人間に闘いを挑んだが、戦闘機と銃撃という帝国主義的な道具によって「罰」が下された、という見方をするのが自然だろう。この視点では、コングが「美しさ」という価値観を理解し、その象徴である「女性」を自らの意思で獲得しようとした、という点で、明らかにコングとヘテロ男性の「同化」が行われている。「美しさ」=「女性」というルッキズム図式にのっとり、コングのモデルであるゴリラに重ね合わされた男性性の「力強さ」を強化するような演出である。

 一方で、本作では主人公たち白人グループの目線で物語が進行していくため、コングが髑髏島にとって果たしてきた役割、いわばコングの「背景」というものが深く描かれない。髑髏島でのコングは、「未開」の原住民たちに異形の存在として祀られる存在であり、「生け贄」として若い女性たちが捧げられていた。コングは原住民にとって「見知らぬ他者」であり「恐怖」の対象であったが、コングを「神格化」し、「儀式」や「生け贄」などのエチケットを形成していくことで彼らの私的領域は保たれていたのである。そして白人たちもまた、「交換財」としての女性を媒介にすることでその二者関係に踏み込もうとする。コングにとっても、「女性の獲得」は暗黙の了解となっていたことだろう。しかし、長年の伝統が破られ、「儀式」が執り行われないとなると、コングが怒りを見せるのも当然である。ここで重要なのは、コングと女性の関係は、他者との共生を円滑に進めるための(男性中心的な)社会構造がもたらしたものであり、人間同士であれば生まれうるロマンティックな感情描写が欠落していることだ。よって、エンパイアステートビルでコングがアンを「守った」のも、一度「生け贄」として提示された対象を手に入れるための行動であったと考えることができる。

 「女性と野獣」、もっと言えば「美女と野獣」というプロットは、本作のみならず他のキング・コング作品にも引き継がれている設定であるが、リメイク版最新作である2017年の『キング・コング;髑髏島の巨神』では、コングと女性の表象に少々相違点が見られる。従来のキング・コング作品では、コングと同様、女性は「まなざされる」客体に徹しており、映画監督やカメラマンといった役柄がコングと女性を「画面」に収め、2005年版で顕著なように、異人種間のロマンスを観客に消費させようとする。しかし2017年版の「ヒロイン」にあたるメイソン・ウィーバーは「反戦カメラマン」であり、自らをカメラの前に晒すのではなく、他の男性たちが持つ武器と同じようにカメラを構えて、コングと対峙するのだ。また2017年版の髑髏島には、コングの他にも多数の「怪物」が生活しており、コングは「最強にして唯一」の存在ではないが、島の原住民や弱い生物たちを守ってくれる「神」であることが明言される。よってコングは、島への脅威に対して全力で闘い、自身よりも強い敵を倒す際に助けられた人間には、敬意を表して去って行く。1933年版では、「人間対コング」という二項対立を際立たせることで、わかりやすい勧善懲悪の物語になっていたのに対し、年月を経たリメイク版では、コングのような「醜く、巨大で、恐ろしい」生物は他にも存在し、人間と同じ土俵に立ってそうした混沌とした悪と戦うコングの「内面の美しさ」が強調されるアップデートがなされているように思える。皮肉にも、ヘテロ男性のステレオタイプが追い求める「Beauty」=「女性」の獲得のために戦わされたコングは、人間の内なる「Beauty」=「正義心」を持った存在として、また違った「同化」を迫られるのだ。