suis quis

映画 / 音楽 / 本 / /

「擬人化」アニメーションの現在 『マダガスカル3』(2012)

ドリームワークス・アニメーションによる『マダガスカル3』は、ニューヨークの動物園から脱出してきたアレックス(ライオン)、マーティ(シマウマ)、メルマン(キリン)、そして紅一点のグロリア(カバ)の4匹が主人公である。シリーズ前作である『マダガスカル』と『マダガスカル2』では、近代都市の監獄装置たる動物園を抜け出した4匹の、マダガスカルやサバンナといった野生環境への回帰が描かれ、今回は彼らが郷愁からニューヨークを目指すというUターンの物語となっている。具体的には、先に飛行機でニューヨークに向かったペンギンズ(リーダー、頭脳派、肉体派、若手の4匹からなるペンギン集団)を追う4匹と、4匹を匿うこととなり、列車で大陸を周遊するザラゴザ・サーカス、さらに脱走した4匹の確保に燃える「動物管理局」および各国の警察の逃走劇により、モンテカルロを支点とし、ローマ、ロンドン、そしてニューヨークと、移動に満ちた世界観が構築されていく。

 まず前提として、「マダガスカル」における動物たちは、人間たちの管理下に置かれている。近年同じく「擬人化」された動物たちを描いたアニメーション作品の『ズートピア』では、人間は存在せず、その他の動物たちによって築かれた高度な文明社会が舞台であったため、行政や司法や警察権力も動物が担っていた。しかし、本作では、現実世界にも存在しない、世界各国の警察組織と連携した恐怖機構としての「動物管理局」が登場する。本作のヴィランである「動物管理局」のデュボア警部のキャラクターは印象的だ。「擬人化」ならぬ「擬犬化」により、這いつくばって鼻をひくつかせて捜査する彼女の描写には、動物だけを人間に同化させる手法の根底にある、人間中心主義への皮肉が込められているのだろうか。

 次に、「擬人化」といっても、本作品の動物たちは二足歩行や顔の表情といった大きな自然原理に反した人間的行動に従わされている一方で、その動物独自の挙動や身体的特徴はそのままアニメーションの中に生かされ、特に「コメディ」要素の形成に一役買っている。例えば、メルマンの長い首が障害となって逮捕されそうになるシーンや、ロープにひっかかってクルクルと廻る描写はコミカルである。『ズートピア』では各々の動物のサイズに合った乗り物が与えられるが、人間サイズの改造バンを手に入れたペンギンズによる運転は、ハンドル担当、アクセル担当との役割分担がうまくいかずスラップスティック・コメディの様相を呈する。一方で、4匹が出会う、「はぐれもの」たるサーカス団にも多様な動物たちが集まっている。リーダーのビターリはロシア生まれのトラで、栄華を失いトラウマを抱えた彼の唯一の関心は「ボルシチ」、気に入らないことがあると「ニエット!」と叫ぶ気難しい性格だ。他にもアシカのステファノが英語をよく聞き取れずアレックスを「アリス」と呼ぶなど、明らかに人種や言語のイメージがそれぞれの動物たちに植え付けられている。この表現は、「擬人化」と「ステレオタイプ」の親和性によるものと言えよう。動物たちは都合のいい「動物独自の行動」を切り取られておもしろおかしく表現され、そのままでは差別的で狭隘な人種・性別・生活習慣の差異を、動物という広い枠組みにおいてアニメーションにて再構築することで直接的な批判を避けることができる。

 最後に、この作品における動物たちの「立場」に注目したい。最初の論点と少し重なるが、彼らは「動物園」や「サーカス」に所属している/いた動物であり、常に観客たる人間に眼差される対象であった。作品中盤にて、アレックスはサーカスの一味に「人間を見返そう」とふっかける。「人間は情熱のある奴を”動物的”っていうだろ?じゃあ動物だけで戦おう」という彼の言葉で、人間の求めるままのパフォーマンス、「型」にはめられた演技を一新し、新生ザラゴザ・サーカスが誕生するのだ。しかし、「サーカス」という枠組みにいる以上、観客がいてはじめて彼らの生計が成り立つのであって、結局どこまでたっても彼らは人間に服従せざるを得ないのではないか。またクライマックスで動物園にたどり着いた4匹は、ザラゴザ・サーカスの助けを借りて彼らを捉えようとするデュボア警部と人間たちを返り討ちし、「動物園」には戻らない選択をする。ラストシーンは、「マダガスカル行き」と書かれた貨物船、貨物の中で、猿轡を噛まされたデュボア警部らのショットが映し出される。これは、4匹は人間の眼差しから開放された一方で、代わりに人間を「モノ化」して服従させようとするエンディングにも思える。どちらにせよ、安易な人間とその他動物の「共存」を示唆させない点で、『マダガスカル3』は興味深い「擬人化」アニメーションであったのは間違いない。