suis quis

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Su Friedrich『Sink or Swim』(1990)

スー・フレドリックの『Sink or Swim』では、アルファベットにともなう26のイメージが展開していく。各シークエンスの最初に挿入される単語のタイトルは、イメージと合っているような気もするし、合っていないような気もする。よって、カメラの動きや登場人物のしぐさから、ある程度映画におけるナラティブの進行を予想できると思っている観客は困惑することになる。また、もう一つのナラティブとして、少女によるボイスオーバーが画面に被さる。こちらでは比較的説得力のある語りが展開され、シーンが切り替わっても繰り返し登場する言葉によりその「物語性」「連続性」を確認することができる。しかし、このナレーションは監督本人によるものではなく、"I"でもなく"She"でもない三人称で進行するため、この作品が単なる「自伝映画」に留まらない独特の距離感を生み出すこととなる。

 この作品は"the girl"と"father"に関する映画である。フレドリック自身の半生をなぞる形で進む作品の中には、父親に対するさまざまな感情として、怒りや憤り、恐怖、憎しみ、そして同時に深い愛慕と尊敬が散らばっている。それは幼少期の記憶であったり、思考であったり、父に教わったギリシャ神話、そして送られなかった手紙というかたちで表出する。一見バラバラに思えるテキストとイメージは、父に対して、一人の女性が持ち続けてきたアンビバレンスな気持ちそのものを表現している。ここで、あくまでもpassengerという存在に過ぎない観客は、映像のつぎはぎに垣間見えるパーソナルな空間にふと飛び込むことになる。『Sink or Swim』という題名通り、この作品にはエピソードにも、映像にも「水」が多く登場する。観客は、地上ではなく水中に潜り、泳ぐことが求められる。はじめからナラティブを予想し、映像と音声の「答え合わせ」を楽しむ「映画」ではなく、さまざまなテキスト、イメージ、感情の洪水に満ちた時空間のひずみに身を任せることで生まれる、「映画体験」とでも呼べる豊かさがそこにはある。

 そしてこの作品では、父との関係だけでなく、フレドリック自身のセクシュアリティやアイデンティティも表象される。たとえば、女性のボディビルダーたちが映るとき、映像とボイスオーバーのナラティブは乖離している。また、登山者の映像とレズビアンカップルのシャワーシーンが交互にインサートされるシーンでは、バックにシューベルト(フレドリックとその母が好きな曲)が流れ、ここでも映像はそれ自体で物語性を発揮している。父親に語りかけるだけでなく、こうしたはっきりとしたレズビアニズムは、フレデリックの確立した自己を表現しているように感じた。

 一方で、これらの映像ははたして本当にレズビア二ズムと受け取れるのだろうか。観客の多くは、いまだに異性愛規範に満ちた映画作品を受容している。わかりやすいキスやセックスの描写だけでなく、画面に男女が存在しているだけで我々はそこに「恋愛」を見いだしてしまう。反対に、ゲイやレズビアンなどの性的欲望は、同性間の「友情」を飛び越えるためにわかりやすく、激しい描写でなくてはならない。しかし『Sink or Swim』で映される女性たちは、ふくよかでやわらかい「女性性」ステレオタイプからかけ離れていたり、カップルが抱き合うだけで直接的な性描写に欠けていたりする。自身の(性的)欲望をスクリーンに投影する観客は、そこに「物足りなさ」を覚えるのではないか。レズビアン表象でいえば、日本ではプラトニックな女性同士の恋愛作品を「百合」、肉体関係を含むものを「レズビアン」作品として区別する傾向がある。異性間恋愛とは違って、こうした「分類」が行われること自体がレズビアンをはじめとしたLGBTQキャラクターが性的対象として捉えられてきたことを象徴している。フレデリックのレズビアン表象は、そうした消費される女性の身体を取り戻すための試みと言えるだろう。f:id:wtson322:20191118123547j:plain

メタファーとしての恐竜 『アーロと少年』(2015)

もし6500万年前の地球に隕石がぶつからず、恐竜たちが絶滅しなかったら?『アーロと少年』(2015) は、そんな世界を描いた作品だ。恐竜たちは地球生活に適応して高度な文明を築き上げ、「言葉」も持っている。本作の主人公であるアーロは草食恐竜のアパトサウルスだが、一家は畑を耕し、農作物を育てて生計を立てている。絶対的存在であり、憧れの対象である父は、こどもたちに厳しい自然環境を生き抜くために自衛することを教えるが、末っ子で身体の小さいアーロは戦力にならずいつもきょうだいにからかわれていた。北アメリカの雄大な自然をバックに描かれる恐竜家族のシークエンスは、さながらアメリカ開拓時代の西部劇のようだ。しかしある日、大洪水がきっかけでアーロの父は亡くなってしまう。悲しみに暮れるアーロは、アパトサウルスの領域に踏み込んできた「人間」の少年を追いかけ、自らも家族とはぐれる。「父性」を失ったアーロは、同じく孤独な少年との冒険を通じて成長していくのだ。絶滅しなかった恐竜と対照的に、「未開のもの」として描かれる少年は言葉も文字も持たず、四つん這いやかみつく行動などで野性的な印象を与える。動物界の「ヒエラルキー」が逆転した世界で、恐竜のアーロが少年を手なずけ、「相棒」として扱う表現は非常に風刺的である。アーロが少年に「スポット」という名を与え、アーロが「おいで!」と彼に声を掛けた瞬間から、二者間には友情が芽生えていく展開になるのだが、この関係は人間と犬や猫などの愛玩動物における「ペット」関係と変わらないのではないだろうか。

 恐竜を「相棒」または「ペット」として見る際に注目すべきなのが、恐竜を「乗り物」として描く表現だろう。『アーロと少年』では、3DCGで表現されるアーロは柔和な表情をしたつるつるで「乗りやすい」恐竜として描かれる。アーロはスポットを「ペット」として手なずけながら同時に彼を自らの背に乗せて移動する。もちろんアーロが草食恐竜ということもあるが、ジュラシック・パークシリーズ、『センター・オブ・ジ・アース』など、実写映画に登場する無骨な恐竜像とは似ても似つかない、アニメーションだからこそ可能な「理想恐竜」表現が「乗り物」として人間と共生を図る恐竜の姿を示している。また恐竜を移動手段として考えるならば、恐竜の姉妹種である翼竜の存在は外せない。翼竜を「相棒」として、「乗り物」として描いた実例は残念ながら見つけられなかったが、ファンタジー生物ドラゴンは、翼竜を虚構化した存在とも言えるだろう。ドラゴンはヨーロッパ文化の伝承や神話で共有されている生物であるため、アメリカ文化にはあまり馴染みがない。しかし、イギリスの児童文学をドリームワークスが映画化したハリウッド映画『ヒックとドラゴン』(2010) は、ヴァイキングの息子に産まれた軟弱な少年が、凶暴で好戦的とみなされていたドラゴンとの絆を育むことでついには「乗り物」として乗りこなし、隠れていた真なる敵を倒す、というストーリーにより全米でヒットした。この映画が面白いのは、人間(ヴァイキング) とドラゴンに定められた対立関係が、ドラゴンを「手なずける」ことで二者の共存、共生が達成され、物語がハッピーエンドを迎えることだ。原題の“How to train your dragon”もあからさまだが、最後には主人公自身の言葉ではっきりドラゴンの「ペット」宣言がなされる。

 『アーロと少年』は人間と恐竜の力関係が逆転、『ヒックとドラゴン』は翼竜亜種としてのドラゴンが登場するイレギュラーな例であるが、ジュラシック・シリーズの21世紀版リブートといえる『ジュラシック・ワールド』(2015) では、クリス・プラット演じるパークの管理人がヴェロキラプトルを「手なずける」シーンが印象的である。前シリーズでは制御不能で不気味な恐怖を人間に植え付けたヴェロキラプトルは、その横暴さでティラノサウルスを凌駕する「新しい敵」=インドミナス・レックス駆逐のために、人間の乗るバイクに併走するよき「相棒」となるのだ。さらに面白いのが、引用した3作品すべてで、人間が相手を「相棒」化する際、自分の映し鏡として恐竜やドラゴンを受け止めていることである。従来の恐竜像が体現してきた得体の知れない強さは、あくまでもその「虎の威を借る」ことで失われた規範復古や資本主義経済のポジティブ・キャンペーンに使われてきた。よってそのイメージの多くは、さながら追いつけども「同化」できない父の背中を追い求めるようなノスタルジーに満ちていた。しかし、そんな恐竜をも「擬人化」の枠組みに捉え直すことで、21世紀の恐竜像は完成されつつあるのではないか。またこうした恐竜の新イメージがメディアなどを通じて再生産される現象は、異種間友情を謳った人間中心主義の復権も促している。

カメラを持った怪物 『リヴァイアサン』(2012)

ルーシァン・キャステーヌ・テイラー、ヴェレナ・パラヴェルによる『リヴァイアサン』(2012)は、巨大なトロール漁船とその下の海を舞台に、超小型カメラGoProを使って撮影された。いわゆる「セリフ」は全くなく、水揚げされる魚が床に打ち付けられる音、地響きのようなエンジン音、カメラにぶつかった異物と衝撃によるノイズ、ヒトたちのささやき、怒号に至るまでのさまざまな前景化されたサウンドが観客を前人未踏の「映画体験」に誘う。とにかく印象的なのは、もはや「手持ち」に収まらず、どこにでも取り付けられる撮影機材が可能にした映像の切り取り方だ。焦点も天地も定めず縦横無尽に動き回るカメラは、いったい誰の/何の視点なのか?結論から言えば、それは「全て」の視点だ。ときには生気を失った魚のぬめった目をゼロ距離で捉え、ときには水中に沈み、鳥とともに船縁を乗り越えようとし、ときには黙々と魚を解体するヒトの肌や筋肉の動きをまじまじと見つめる。カメラが憑依するアクターは次々に変わっていくため、私たちはリラックスして身を委ねることができない。また、視点の不安定性は、その変化を操る「何物」かの存在をも想起させる。映画のタイトルである「リヴァイアサン」は、旧約聖書に登場する海の怪物の名前として有名である。聖書の中のリヴァイアサンは部分的に具体的な描写はあるものの、その全体像は得体の知れない存在として、海蛇、鰐、鯨といった巨大生物に転写されてきた。普段は海底に身を潜めているが、ひとたび怒らせるとその姿を現す、という神秘的な描写もヒトたちの恐怖を募らせる。よって、ヒトの手には負えない、またカメラにも映らない異形の何かがカメラを覗きこんでいると考えることもできる。

 本作では、トロール漁によって無作為に捕獲された海洋生物のうち、ヒトが「使える」ものだけ搾取されていく状況が延々と映されていく。現代においては、ヒト以外の動物はヒトに消費されるが、ほとんどの動物はヒトを消費しないしできない。ヒトは食肉文化を文化的伝統に組み込んだことで、動物の「贈与」なしには生きていけなくなっているのだ。また、古来よりヒトがヒトを超越した何か(神)を「再演」するための宗教的儀式や、豊穣豊作による祝祭行為において生け贄となり、消費されたのは、多くが「犠牲者」たる動物であった。マルセル・モースは『贈与論』において、贈与交換があらゆる社会活動の基盤を形成し、ヒト同士のネットワークを強化するための装置となると述べたが、『リヴァイアサン』の渾然一体となったヒトやモノを捉えるカメラを経験すると、もはや人間中心でも、物質中心でもなく、多様なアクターの作用があふれている世界の中で、身の回りのモノやノイズに目を向ける必要性が立ち現れる。

 また、カメラの視点を考える上では、「観客」はその映像をどのように受容するのか?という疑問も生じる。作品中のカメラの視点が定まらなくても、観客は自身を観客として自覚している。ゆえに、ここのシーンの撮影は何の視点であるか、ということを「客観的」に推定し、分析することが可能である。逆に言えば、観客としてのアイデンティティが確立しないとき、目の前にそびえたつスクリーン、その中で起こっている事柄に線引きできない状況が出現する。冒頭で使用した「映画体験」ということばは、近年特に映画批評や表象文化論、メディア論にて頻出している。映画の持つ従来の観る/観られるという二項対立を超越するような「体験」という単語を取り入れることで、『リヴァイアサン』のように作品内の視点の不安定性を示すだけでなく、受容者たる観客に揺さぶりを掛けるような作品が増えていることがわかる。そして、観客の多くが映画を観る場所である「映画館」についても同じことが言える。映画製作の潮流が、あらゆる意味で見世物的な短編映画、サイレント作品から、観客が主人公に感情移入しながら物語を楽しむ長編映画、トーキー作品へと移行していくにつれて、上映場所である映画館は暗く静粛になり、観客は視覚的な「動性」とひきかえに身体的な「不動性」を求められるようになっていった。しかし近年では、4DXやIMAX、VR装置など、観客の身体的「動性」を呼び戻し、作品と映画館の境界を揺籃させる技術が発達してきている。映画に「没入」し、映画を「体験」することが可能になった今、私たちはもはやカメラや映写機が映し出す「虚像」を身の回りの物質やヒトと同等に扱うことが可能になっているのではないだろうか。

 『リヴァイアサン』を著したトマス・ホッブズは、国家は神の創造物ではなく、ヒト同士の相互関係が織りなすものであるとして、「万人の万人による闘争」という言葉を残した。モースと同じように、彼らの生きた時代よりもいっそうヒトとモノ、そのほかの主体との境界が薄れている現代においては、この言葉をも再考していく必要があるだろう。

コングはなぜ、何のために戦ったのか?『キング・コング』(1933)

メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサックによる1933年版『キング・コング』のラストシーンでは、エンパイアステートビルから墜落したコングに群がる人びとを尻目に、コングを髑髏島から連れ出した張本人である映画監督カール・ダナムが「It was Beauty killed the Beast.」と呟く。このセリフは2005年のピーター・ジャクソンによるリメイクでもそのまま用いられているが、果たしてこのセリフに込められた真意とは何なのだろうか。直訳すると「美しさが野獣を殺した」となるが、この「美しさ」がキング・コング映画で必ず登場する女性を示すことは明白である。ラストに発されるダナムのこのセリフによって、コングは「Beauty」である白人女性の獲得に躍起になったため人間に闘いを挑んだが、戦闘機と銃撃という帝国主義的な道具によって「罰」が下された、という見方をするのが自然だろう。この視点では、コングが「美しさ」という価値観を理解し、その象徴である「女性」を自らの意思で獲得しようとした、という点で、明らかにコングとヘテロ男性の「同化」が行われている。「美しさ」=「女性」というルッキズム図式にのっとり、コングのモデルであるゴリラに重ね合わされた男性性の「力強さ」を強化するような演出である。

 一方で、本作では主人公たち白人グループの目線で物語が進行していくため、コングが髑髏島にとって果たしてきた役割、いわばコングの「背景」というものが深く描かれない。髑髏島でのコングは、「未開」の原住民たちに異形の存在として祀られる存在であり、「生け贄」として若い女性たちが捧げられていた。コングは原住民にとって「見知らぬ他者」であり「恐怖」の対象であったが、コングを「神格化」し、「儀式」や「生け贄」などのエチケットを形成していくことで彼らの私的領域は保たれていたのである。そして白人たちもまた、「交換財」としての女性を媒介にすることでその二者関係に踏み込もうとする。コングにとっても、「女性の獲得」は暗黙の了解となっていたことだろう。しかし、長年の伝統が破られ、「儀式」が執り行われないとなると、コングが怒りを見せるのも当然である。ここで重要なのは、コングと女性の関係は、他者との共生を円滑に進めるための(男性中心的な)社会構造がもたらしたものであり、人間同士であれば生まれうるロマンティックな感情描写が欠落していることだ。よって、エンパイアステートビルでコングがアンを「守った」のも、一度「生け贄」として提示された対象を手に入れるための行動であったと考えることができる。

 「女性と野獣」、もっと言えば「美女と野獣」というプロットは、本作のみならず他のキング・コング作品にも引き継がれている設定であるが、リメイク版最新作である2017年の『キング・コング;髑髏島の巨神』では、コングと女性の表象に少々相違点が見られる。従来のキング・コング作品では、コングと同様、女性は「まなざされる」客体に徹しており、映画監督やカメラマンといった役柄がコングと女性を「画面」に収め、2005年版で顕著なように、異人種間のロマンスを観客に消費させようとする。しかし2017年版の「ヒロイン」にあたるメイソン・ウィーバーは「反戦カメラマン」であり、自らをカメラの前に晒すのではなく、他の男性たちが持つ武器と同じようにカメラを構えて、コングと対峙するのだ。また2017年版の髑髏島には、コングの他にも多数の「怪物」が生活しており、コングは「最強にして唯一」の存在ではないが、島の原住民や弱い生物たちを守ってくれる「神」であることが明言される。よってコングは、島への脅威に対して全力で闘い、自身よりも強い敵を倒す際に助けられた人間には、敬意を表して去って行く。1933年版では、「人間対コング」という二項対立を際立たせることで、わかりやすい勧善懲悪の物語になっていたのに対し、年月を経たリメイク版では、コングのような「醜く、巨大で、恐ろしい」生物は他にも存在し、人間と同じ土俵に立ってそうした混沌とした悪と戦うコングの「内面の美しさ」が強調されるアップデートがなされているように思える。皮肉にも、ヘテロ男性のステレオタイプが追い求める「Beauty」=「女性」の獲得のために戦わされたコングは、人間の内なる「Beauty」=「正義心」を持った存在として、また違った「同化」を迫られるのだ。

「擬人化」アニメーションの現在 『マダガスカル3』(2012)

ドリームワークス・アニメーションによる『マダガスカル3』は、ニューヨークの動物園から脱出してきたアレックス(ライオン)、マーティ(シマウマ)、メルマン(キリン)、そして紅一点のグロリア(カバ)の4匹が主人公である。シリーズ前作である『マダガスカル』と『マダガスカル2』では、近代都市の監獄装置たる動物園を抜け出した4匹の、マダガスカルやサバンナといった野生環境への回帰が描かれ、今回は彼らが郷愁からニューヨークを目指すというUターンの物語となっている。具体的には、先に飛行機でニューヨークに向かったペンギンズ(リーダー、頭脳派、肉体派、若手の4匹からなるペンギン集団)を追う4匹と、4匹を匿うこととなり、列車で大陸を周遊するザラゴザ・サーカス、さらに脱走した4匹の確保に燃える「動物管理局」および各国の警察の逃走劇により、モンテカルロを支点とし、ローマ、ロンドン、そしてニューヨークと、移動に満ちた世界観が構築されていく。

 まず前提として、「マダガスカル」における動物たちは、人間たちの管理下に置かれている。近年同じく「擬人化」された動物たちを描いたアニメーション作品の『ズートピア』では、人間は存在せず、その他の動物たちによって築かれた高度な文明社会が舞台であったため、行政や司法や警察権力も動物が担っていた。しかし、本作では、現実世界にも存在しない、世界各国の警察組織と連携した恐怖機構としての「動物管理局」が登場する。本作のヴィランである「動物管理局」のデュボア警部のキャラクターは印象的だ。「擬人化」ならぬ「擬犬化」により、這いつくばって鼻をひくつかせて捜査する彼女の描写には、動物だけを人間に同化させる手法の根底にある、人間中心主義への皮肉が込められているのだろうか。

 次に、「擬人化」といっても、本作品の動物たちは二足歩行や顔の表情といった大きな自然原理に反した人間的行動に従わされている一方で、その動物独自の挙動や身体的特徴はそのままアニメーションの中に生かされ、特に「コメディ」要素の形成に一役買っている。例えば、メルマンの長い首が障害となって逮捕されそうになるシーンや、ロープにひっかかってクルクルと廻る描写はコミカルである。『ズートピア』では各々の動物のサイズに合った乗り物が与えられるが、人間サイズの改造バンを手に入れたペンギンズによる運転は、ハンドル担当、アクセル担当との役割分担がうまくいかずスラップスティック・コメディの様相を呈する。一方で、4匹が出会う、「はぐれもの」たるサーカス団にも多様な動物たちが集まっている。リーダーのビターリはロシア生まれのトラで、栄華を失いトラウマを抱えた彼の唯一の関心は「ボルシチ」、気に入らないことがあると「ニエット!」と叫ぶ気難しい性格だ。他にもアシカのステファノが英語をよく聞き取れずアレックスを「アリス」と呼ぶなど、明らかに人種や言語のイメージがそれぞれの動物たちに植え付けられている。この表現は、「擬人化」と「ステレオタイプ」の親和性によるものと言えよう。動物たちは都合のいい「動物独自の行動」を切り取られておもしろおかしく表現され、そのままでは差別的で狭隘な人種・性別・生活習慣の差異を、動物という広い枠組みにおいてアニメーションにて再構築することで直接的な批判を避けることができる。

 最後に、この作品における動物たちの「立場」に注目したい。最初の論点と少し重なるが、彼らは「動物園」や「サーカス」に所属している/いた動物であり、常に観客たる人間に眼差される対象であった。作品中盤にて、アレックスはサーカスの一味に「人間を見返そう」とふっかける。「人間は情熱のある奴を”動物的”っていうだろ?じゃあ動物だけで戦おう」という彼の言葉で、人間の求めるままのパフォーマンス、「型」にはめられた演技を一新し、新生ザラゴザ・サーカスが誕生するのだ。しかし、「サーカス」という枠組みにいる以上、観客がいてはじめて彼らの生計が成り立つのであって、結局どこまでたっても彼らは人間に服従せざるを得ないのではないか。またクライマックスで動物園にたどり着いた4匹は、ザラゴザ・サーカスの助けを借りて彼らを捉えようとするデュボア警部と人間たちを返り討ちし、「動物園」には戻らない選択をする。ラストシーンは、「マダガスカル行き」と書かれた貨物船、貨物の中で、猿轡を噛まされたデュボア警部らのショットが映し出される。これは、4匹は人間の眼差しから開放された一方で、代わりに人間を「モノ化」して服従させようとするエンディングにも思える。どちらにせよ、安易な人間とその他動物の「共存」を示唆させない点で、『マダガスカル3』は興味深い「擬人化」アニメーションであったのは間違いない。